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2011年12月

2011年12月31日 (土)

131.今年1年、ありがとうございました

 2011年も間もなく終わろうとしています。振り返ってみると東日本大震災を始め、夏・秋の集中豪雨など、心が痛むできごとが多かった1年でした。繰り返しになりますが、亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、罹災された方々が1日も早く元の生活に戻れることを願っております。

 今年1年、ブログメンバーの皆様はもちろんのこと、このブログをご覧いただいた方々には厚くお礼申しあげます。2012年が朝日に光る海のように輝きに満ちた年になりますように心よりお祈り申し上げます。来年もより一層のご厚情を賜りますようお願いいたします。


「はなぶさ」に集まる仲間たち

 相賀の鉄橋で一番撮りたかったシーンです。太陽の位置と列車ダイヤの関係から冬至前後の限られた時期しか撮ることができません。前日の天気予報と睨めっこしていたら、条件が整いそうだったので、スクランブル発進となりました。長年の宿題のひとつを終えることができました。

【2011.12.3 相賀~尾鷲】(電車運転士)

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来年もよろしく

 今年1年、定例会をはじめ、本ブログでも大変お世話になりました。また、拙ブログをご高覧頂いた読者の方々にもお礼申し上げます。

 来る年も、本ブログをはじめとして、鉄活動に励みたいと思いますので、宜しくご交誼の程、お願い申し上げる次第です。

 大地震や原発事故、集中豪雨など、今年1年はいろいろありましたが、来るべき年は何とか明るい年になり、添付の写真のように快晴で山も綺麗に見えて心まで洗われるような素晴らしい景色の中で、良い写真が撮れますことを祈念しております。


「はなぶさ」に集まる仲間たち


 ご存じない方のために・・・・この写真は、昭和50年3月で廃止となった富山地鉄笹津線。後ろの山並みは立山連峰。


「はなぶさ」に集まる仲間たち

 こちらは、平成24年春に消える長電2000系。この時の一連の写真が、今年一番の出来かな(^_^)。(駅長)



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2011年12月26日 (月)

【アーカイブス】さらば!団結号

 クリスマス・イブの夜のこと、出札掛さんの「シティタワー」の記事を見てコメントを付けようと思ったら、いつもと違う画面が出てくる。コメントを入れようと思うと、あなたのIDは退会扱いとなっているとの表示。その後、どうID、パスワードを入れても認識しない。これはあせった。

 その後、判明したのは不正アクセスで、一部のIDが退会扱いになったのが原因とのこと。新聞報道によれば、5万人が退会扱いになったようで、それに大当たりしてしまったようだ。コメントのタイムスタンプを見ると、電車運転士さんや出札掛さんは影響を受けなかったように見受けられますが、どうだったでしょうか?

 ちなみに現在は復旧しており、見た限りでは特に後遺症もないようだ。しかし、日本有数のブログといわれ、防御態勢もかなりしっかりしていると思われるこうしたブログでも、こうした被害に遭うことがわかった。サイバー社会の脆弱さを改めて感じた次第である。

 とんだプレゼントをもらったクリスマスイブである。この調子で、年末ジャンボも当たらないかしら(^^;)


 さて、本題に戻って、今回は画像修正ネタです。


 「団結号」をご存じの方はどれくらいいるだろうか?国鉄の労使紛争華やかりし頃、各地でスト権ストが頻発したが、そのスローガンを機関車に書き込んだのが通称、団結号。特に蒸気機関車は黒い車体に石灰で容易にスローガンが書き込めるため、各地でこうした機関車が運行された。団結号は、機関車を大事に使う九州には少なかったように思うが、組合が強く、かつ蒸機が沢山残っていた北海道は、かなりのカマが団結号になった。特に昭和48年の冬が一番ひどかったのではないか、と記憶する。

 当時は蒸機の最期でブームとなっていたが、撮影に行ってこうした団結号が来たら目も当てられない。なけなしの金をはたいて遠征し、何キロも歩いて1日に数本しかない蒸機列車を待って、それが団結号だったら・・・。こうした目に何度あったことやら。慣れてくると、運用を調べて綺麗なカマを撮影するようになるが、それでも運用が変わったりしてかなり痛い目にあっている。


 これは昭和47年6月に小海線で写した八ヶ岳高原号。もう初夏で雪は無くなっているが、八ヶ岳連山も見えるまずまずの条件で、最高地点の鉄橋で待っていると、やってきたのはテンダにスローガンを書いたC56の牽く高原号。ショックで、駅まで戻る道の遠かったこと。


「はなぶさ」に集まる仲間たち

 写真のデジタル化を進めるにあたり、なんとかフォトショップで団結号のこうしたスローガンを消すことができないか、と考えた。容易に考えられるのは、コピー・スタンプツールであるが、均一に処理ができず、なかなかうまくいかなかった。


 そんな中、最近になって某ムック誌で、「ワンランク・アップの写真修正術」という記事が掲載された。これを見ると、現像の不具合の解消とか、汚れた機関車を綺麗にするコツとか、いろいろ載っている。とはいえ、これまで不勉強で、フォトショップはわかる機能だけ使っていたので、レイヤーを使った修正は経験が無く、記事を読むだけではなかなかうまくいかなかった。


 そこで、筆者が知人であることを良いことにメールで質問したり、本を買ってきて勉強して、すこしは使えるようになってきた。この3連休、年賀状を書いて夜に纏まった時間が取れたことから、「団結号」の修正に本格的に取り組んでみた。

 多少はそれまでの勉強の成果があったのか、この修正は比較的簡単にできた。その結果は以下の通り。

「はなぶさ」に集まる仲間たち


 機関車のテンダという、比較的処理しやすい対象であったためか、予想以上にうまくいった。ピクセル等倍で見てもわからないので、ネットは勿論のこと、かなり大きく引き伸ばしても大丈夫ではないか、と思われる。理由はよくわからないが、スポイトツールの活用とノイズを加えることがポイントだろうか。こうしたことは、フォトショップのガイドブックを見るだけではわからない。ついでに、前に引き伸ばした時にネガについたと思われる汚れも修正する。


 その勢いで、もうすこし難度が高い、と思われる写真も修整してみる。


「はなぶさ」に集まる仲間たち


 小海線の広瀬で撮影した貨物であるが、高原号より、もっと醜く汚れている。これも、修正で以下の通り。


「はなぶさ」に集まる仲間たち


 諦めていた写真が見事に甦った。これは嬉しい。(^_^)


 団結号の写真は、まだまだ大量にあり、いずれ機会があれば、こうした修正を加えて見られるようにしたいものだ。このよううな修正は改変となるのだけれど、電柱を消すならともかく、機関車の汚れを修正するくらいなら許して貰えるのではないだろうか。


 最期に、以前、お見せした松原湖を行くC56の3Lの旅号。同じ時に撮影した写真である。人工的に補修されたのり面がうるさいが、前後のC56を綺麗に入れることが出来たので、まずは満足のいく写真となった。


「はなぶさ」に集まる仲間たち


 まだまだフォトショップの能力の数%しか使っていないので、より使いこなせるようにすることが、デジタル化時代を生きるための課題のようだ。これからもこうした情報交換を、切にお願いしたい。(駅長)


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2011年12月24日 (土)

日本最古の現役車両

 今、日本の鉄路の上で動いている最も古い車両は何だろう?

 少し前までなら、揖斐線のモ510形といっておけば当たらずとも遠からず、であったが、すでにない。

 軌道では、明治44年製の長崎電軌の168が明治生まれで最も古いが、動態保存でほとんど動くことがない。鉄道では、昭和元年製の高松琴平電鉄3000形であろうか。こちらも、動態保存状態になり、月1度くらい動くだけである。

 となると、昭和3年製の阪堺モ161形が最も古い現役車両かもしれない。1両だけ残っているのではなく、15両製造された内の9両が稼働しているというのも、最古の現役車両というのにふさわしい。

 このモ161形については、この春に161が昭和40年代の姿に復元され、早速乗りに行っており、その様子は本ブログでご紹介した。しかし、この時は乗り鉄であったため、ほとんど走りを撮ることができなかったため、ちょっと悔いが残った。

 今月になって所用で大阪に行く機会があり、ちょうどその時に走るとの情報をもらったことから、時間を都合して1往復であるが撮影してきた。


「はなぶさ」に集まる仲間たち


 まずは、堺市内を南北に貫く大道筋の南端、御陵前で浜寺行きを狙う。丁寧に整備された姿を見ると、時代が遡ったかのようである。


「はなぶさ」に集まる仲間たち


 折り返しを、大道筋の北側の綾ノ町で狙う。浜寺行きとは若干異なった趣向が凝らしてあるのがわかるだろうか。


「はなぶさ」に集まる仲間たち

 モ161形は、冷房装置がないため、夏は稼働しないが、輸送力が大きいことから秋から春にかけては動くところが見られる。特に162、163は南海太郎と呼ばれた地元ファンが自費で緑の塗装に復元(広告車扱いとした)しており、太郎氏が夭逝された後もその意志を継いで緑の塗装のままである。ちょうど163が動いていたので、帝塚山四丁目で待っていて狙う。このあたりは道路が狭く、昔ながらの下町の雰囲気を残していて、好きな区間である。


「はなぶさ」に集まる仲間たち


 後、阪堺線で目立つのは、都電とのコラボで都電色に塗られた502であろう。黄色に赤いラインは結構目立つ。


 阪堺線沿線には住吉大社があり、正月には稼働車すべてを出して、初詣輸送に当たる。ここで紹介した車両も、正月には大活躍することになろう。都合がつけば、また、見に行きたいと考えている。(駅長)




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「シティータワー」から見下ろしてみよう

JR岐阜駅に隣接する高層ビルは43階建ての「岐阜シティータワー」。無料展望室として一般開放されている最上階まで上れば、岐阜市内はおろか、尾張平野を一望する大パノラマが待ち受けています。趣味的観点から言えば、線路の向こうから岐阜を目指して走って来るJR、名鉄の各列車を眺めながら大俯瞰撮影を味わえます。空気の澄んだ今の時期は撮影にもうってつけ。今回紹介する画像は3年前の12月で少々古いですが、撮影した方角には大きな変化もなさそうなので載せることにしました。


「はなぶさ」に集まる仲間たち

展望室から東の方角を望みます。左下に名鉄電車と、東海道の上下線を割って岐阜駅へ進入する高山線ローカル、そして車体を輝かせながら大カーブに差し掛かる東海道下り快速列車の3本が一画面に収まりました。



「はなぶさ」に集まる仲間たち

カメラを少し上にあげて江南市、丹羽郡の方角を眺めます。斜陽を受けて輝く東海道の下り列車を撮影したのですが、あとで自宅でPCのモニターを覗いたら、画面左手の中ほどに赤い名鉄電車が小さく見え、同時に写っていたことに気が付きました。車体の塗色はとても重要であると改めて思います。因みに、名鉄の走行地点は細畑駅カーブ。



「はなぶさ」に集まる仲間たち

その細畑駅カーブをズームアップし、各務原方面にカメラを向けます。夕方近くの撮影なので建物が太陽の光を受けて明るく反射するため、列車が周囲の風景に溶け込んでしまいがちですが、さすが「赤い」電車はしっかり存在感を表します。やはりここでも塗色は重要ポイント。



「はなぶさ」に集まる仲間たち

展望室西側から大垣、関ケ原の方角です。ここでは東海道上り列車が撮影対象。線路の先には岐阜貨物ターミナル、長良川橋梁が望められるので、お目当ての列車がやってきても落ち着いてセットアップできます。



「はなぶさ」に集まる仲間たち

日が暮れる直前、伊吹山がシルエットで夕焼けの空に浮かび上がります。陽の傾いた時間帯をうまく選べば、高さの低い建物が影に隠れるため高架線はスポットライトを浴びたかのようなシーンになり、線路上の列車が照らし出されます。ただ、画角によってはゴーストが出やすいので注意が必要。


次回は雪晴れの日に狙おうかと思案中。(出札掛)




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2011年12月21日 (水)

119系誕生の頃

最近、当ブログのメンバーでも話題に上るようになった119系ですが、新製から30年、そろそろ引退の時期を迎えています。今回は、119系の新製後の出場試運転をご紹介したいと思います。

119系は1982年12月から1983年6月にかけて57両全てが日本車両で新製されました。


まずは最初の試運転です。

「はなぶさ」に集まる仲間たち

試9771M クモハ119-1他 弁天島・新居町 1982年12月2日

当時の試運転行路は豊川→掛川→豊橋で、これは掛川からの戻りで後追いです。マウントからスキャンしたので、先頭車がチョット欠けているのはご愛嬌ということで・・・・。


「はなぶさ」に集まる仲間たち

回9554M クモハ119-1他 豊橋・西小坂井 1982年12月2日

豊橋ではダイヤ上の制約のためか直接所属の豊橋区に入れないため、一旦西小坂井まで送り込んで折り返していました。真っ黒に塗られた床下に抵抗器の銀色が印象的です。



「はなぶさ」に集まる仲間たち

試9771M クモハ119-14他 弁天島・新居町 1983年1月25日

出場は計8回ありましたが、4回目と最終出場は9両編成という長大編成となり壮観でした。


「はなぶさ」に集まる仲間たち

回9454M クモハ119-14他 弁天島・新居町 1983年1月25日

試運転後、置換えまで一旦に疎開するため西浜松へ向かいます。


「はなぶさ」に集まる仲間たち

試9770M クモハ119-29他 船町・下地 1983年6月7日

最終出場です。82年度車と83年度車はテープの関係で手スリの位置が異なるらしいのですがよくわかりません。


「華がない」と言われる119系ですが、30年の間には紆余曲折があり、この後も順次アップさせて頂きます。

(検査掛)
  




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2011年12月20日 (火)

130.夏の海辺を行くDF50とキハ81 1978/8/14

 北恵那鉄道訪問の口実となったお盆の帰省も終わり、姫路に戻ることになりました。しかし、ただ親の車に乗って帰るだけではもったいないと新宮電化が間近に迫った紀勢本線をひと回りして帰ることに…。親からは「この大事な時期に何を考えとんじゃ」と小言を言われながらもあっさりと聞き流し、駅の窓口で多治見→紀勢本線→大阪→姫路のキップを購入しました。今回は、たまたまもう1台のカメラにネガカラーを入れての撮影行となりました。過去ネタでは初めてのカラー写真ですが、退色がかなり進んでいたものの現像ソフトで何とか修復することができました。


「はなぶさ」に集まる仲間たち


 「紀伊」を新宮からほど近い王子ヶ浜で狙うため、名古屋から夜行の「紀州」に乗って新宮を目指しました。早朝の王子ヶ浜をDF50牽引の「紀伊」が通過して行きます。「紀伊」はDF50最後のブルトレでしたが、あまり注目されることもなく地味な存在でした。新宮電化をおよそ2か月後に控え、すでに架線も張られ、準備はすべて整ったといった感じです。このポイントはゴミ焼却場みたいな施設からの俯瞰ですが、昨年、紀伊田原の海岸を撮影に行った際にこのポイントに立ち寄ったところ、施設は撤去されて跡形もなくなり、自然に返った状況になって海岸を望むことはできませんでした。

【1978.8.14 新宮~三輪崎】(電車運転士)



「はなぶさ」に集まる仲間たち


 「紀伊」は終点の紀伊勝浦到着後、新宮まで回送されます。DF50とブルトレ客車の組み合わせを編成写真で撮りたくて海岸に降りました。左後方の山の中腹に高い煙突が見えますが、ここが王子ヶ浜を俯瞰するポイントでした。

【1978.8.14 新宮~三輪崎】(電車運転士)



「はなぶさ」に集まる仲間たち


 「紀伊」回送の合間に撮ったローカル気動車です。キハ17が主体の編成でしたが、この頃になるとキハ10系もそろそろ先行きが不安という噂が広まっており、それを意識してシャッターを押したものと思われます。

【1978.8.14 新宮~三輪崎】(電車運転士)



「はなぶさ」に集まる仲間たち

 海岸に打ち寄せる波を強調したくて波打ち際で列車を待ちました。岩と岩の間に貨物列車を牽くDF50がチラッと顔を見せていますが、波の音で接近音がまったく聞こえないのとシャッターチャンスが一瞬ということで、結構緊張して待ち構えていた記憶があります。

【1978.8.14 新宮~三輪崎】(電車運転士)



「はなぶさ」に集まる仲間たち

 夏の海岸らしい雰囲気を出したいと思い、空を多めに入れてみました。白黒ではもうひとつといった感じで、カラーも撮るべきだったと反省でした。

【1978.8.14 新宮~三輪崎】(電車運転士)



「はなぶさ」に集まる仲間たち

 午後からは非電化区間での撮影ということで波田須に移動しました。10月の新宮電化で現役引退が決まっていたキハ81の「くろしお」まであまり時間がなかったため、定番ポイントまだたどり着くことができず、ちょっと中途半端な感じになってしまいました。

【1978.8.14 波田須】(電車運転士)



「はなぶさ」に集まる仲間たち

 皆様もよくご存じの定番ポイントです。海の青・DF50の赤・田んぼや木々の緑のコントラストが印象的でした。ここは今でも撮影ポイントとして健在ですが、右側の植林された杉の木が成長して海の見える範囲が狭くなってしまったのに加えて、背後の棚田も荒れ放題となってしまい、この頃に比べて条件はかなり悪くなってしまいました。

【1978.8.14 新鹿~波田須】(電車運転士)



「はなぶさ」に集まる仲間たち

 このアングルも皆様お馴染だと思います。今の徐福茶屋俯瞰ポイントより低い場所で撮影しています。当時は、おそらく上の道路からは木が邪魔して撮れなかったんじゃないかと思います。

【1978.8.14 新鹿~波田須】(電車運転士)



「はなぶさ」に集まる仲間たち

 新宮で発車を待つ天王寺行の夜行普通列車「南紀」です。新宮電化以後は「南紀」の愛称は名古屋~紀伊勝浦間の特急に譲り、「はやたま」を名乗ることになります。DF50が10系寝台車2両を従えて停車中です。寝台車が連結されている関係で、ひと目で夜行列車とわかります。今宵の宿はこの「南紀」、このシーンを撮影後は乗客となり、天王寺→大阪→姫路と帰宅の途につきました。

【1978.8.14 新宮】

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2011年12月17日 (土)

必 死

12月11日の「波田須駅50周年記念号」の運転を前に伊勢運輸区のキハ48 6502が国鉄色に塗られ、これにより伊勢のキハ40系国鉄ツートン色は2両体制となりました。

「波田須駅~号」は公式発表によると国鉄色3両編成の運転。組成するには1両足りない、ということで今秋の「熊野古道伊勢路号」運転時と同様に美濃太田のキハ40ツートン車が貸し出されることになりました。

さて貸出回送日は?と各ブログ等目撃情報に注目していると、どうやら本運転前日の土曜日である10日に運転される公算が強くなってきたようで、ちょうど会社休業日だし、珍しい国鉄色キハ単コロを撮るには千載一隅のチャンス!(オーバーな)。



「はなぶさ」に集まる仲間たち

ダイヤ情報誌の掲載時刻にならうと、「熊野古道伊勢路号」運転に備えた前回の貸出回送の美濃太田発は12:57。これを当てにして車両区出区から狙ってみようと発車30分前に美濃太田駅に到着したら、あら、すでに中線で出発待機中でした。こういう性格の列車は前回と同じ時刻で運転される保証がないので、この目で確認するまでは半信半疑でしたが、これでほぼ確定となりました。

下り「ひだ」進入に合わせて1カット目。それでは、追いかけて撮影してみましょうか。



「はなぶさ」に集まる仲間たち

美濃太田西方の築堤撮影ポイントは定番すぎるので、他にはないのだろうかと“定番外し”の悪い癖がまたまた出てしまい、しばらく車でうろうろしていたら発車時刻に。理解しがたい立ち位置で、しかも1両を強調するアングルで2カット目。



「はなぶさ」に集まる仲間たち

最近お気に入りの坂祝ー鵜沼間で3カット目。1両のみで走る国鉄色車はかつてのローカル線をイメージさせます。紅葉はすでに終わりかけ。



「はなぶさ」に集まる仲間たち

さらに車でどんどん追いかけます。鵜沼の西方でちょうど踏切に引っ掛かったので、せっかくだから1カットいただきましょう。あっ、露出を間違えた。現像ソフトで画像修正。そういえば、最近某ムック本で画像処理ソフトの「レイヤー」機能の使い方が掲載されていましたが、今になってようやく試してみるとなかなか便利であることに気が付きました。



「はなぶさ」に集まる仲間たち

最後は東海道を走るシーンも、と木曽川の定番ポイントににやってきました。ここまで来ると、西から流れて来た雲のせいでずーっと曇天。しかも現在は架線柱の取り換え中で、ものすごく撮りにくくなっています。そのせいで、西(順光)側からは線路のそばから狙わないととても撮れる状況ではないので、東側から岐阜城むりやり入れてのカット。同業者がどうりで少ないわけです。



「はなぶさ」に集まる仲間たち

この日は、今後の去就が注目されるワムハチ編成でおなじみ6170レにネタ釜のEF66 54が充当されるせいで、朝から目撃掲示板は大騒ぎ。ところが始発の梅田を大幅遅延で発車しており、柏原13:30頃通過との情報。しばらく粘ればこれも撮れるのでは、とキハ40から待つこと45分、あきらめて撤収しようとしたら現れました。しかし雲間から陽がさしてきたのは計算外。6時間15分遅。


「なんだか必死ですね・・・」

みんなから白い眼でにらまれそうな12月10日の鉄活動でした。(出札掛)





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【アーカイブス】急行「伊勢路」のDF50

 先に昭和55年3月に運転された紀勢線のDF50お別れ列車を紹介しているが、それ以外にDF50を撮影したのは、昭和54年6月だけである。何の目的か、もう忘れてしまったが、この時に名古屋の80系お座敷車を使って、名古屋から伊勢市まで急行「伊勢路」が運転され、それを撮影に行ったのである。この列車(たしか臨時急行だったと思うが)は、休日に数回、運転されたと記憶する。

 当時は、まだ臨時列車を撮影することはほとんど無かったが、この頃からこうした列車の撮影が増えていった。


 まずは、関西線を走った急行「伊勢路」から。今となっては、80系のお座敷も懐かしい。この時には、デッキにかわいいヘッドマークも取り付けられていた。


「はなぶさ」に集まる仲間たち

 亀山では、反対側にDF50が付けられ、伊勢市に向けて発車していく。


「はなぶさ」に集まる仲間たち


 紀勢線の撮影地として、名古屋から最も近かったのは下庄のSカーブである。ここには撮影に行っているが、良い景色が広がる参宮線内で「伊勢路」を一度も撮影していないのは、今となってはちょっと残念である。


「はなぶさ」に集まる仲間たち


 この時に撮影したネガには、DF50が「紀伊」のヘッドマークを付けた写真が写っている。当時、「紀伊」にはヘッドマークが取り付けられていなかった。

 となると、このヘッドマークはいつ、付けて走ったのだろうか?


「はなぶさ」に集まる仲間たち


 結局、「紀伊」を牽くDF50は一度も撮りに行かなかった。その理由は「紀伊」にはへードマークが無く、特急の貫禄に欠ける、と思ったからであろう。もし、こんな綺麗なマークが着いていたら、少なくとも一度も撮影に行かなかった、ということは無かったのではないだろうか。(駅長)

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2011年12月16日 (金)

129.北恵那鉄道 最後の夏 1978/8/12

 以前にご紹介させていただいた北恵那鉄道、尾小屋鉄道が廃止された後、次のネタとしてじっくり通ってみようかと思っていた矢先に1978(昭和53)年9月18日限りで廃止という情報が飛び込んできました。残された時間は後わずかということで、お盆で帰省したタイミングを狙って中津川に向かいました。例によって昼間帯は列車の運転がありませんが、陽の長い夏場は夕方から動き出す列車の走りを何本か撮れそうだったので、半日鉄にしてはそれなりの収穫があったと思います。



「はなぶさ」に集まる仲間たち


 昼過ぎに中津川に着き、定番パターンでまず中津町を訪れました。蒸し暑い空気が漂う中、お決まりの場所にモ563とデ2が停まっていました。デ2の正面中央窓が開いていますが、固定窓ではなく横にスライドして開閉が可能ということをこの時初めて知りました。

【1978.8.12 中津町】(電車運転士)



「はなぶさ」に集まる仲間たち


 この年の正月に訪問した時は倉庫の建物の影の中に入ってしまい、光線がよくありませんでしたが、夏場とあって良好な光線状態で撮ることができました。

【1978.8.12 中津町】(電車運転士)



「はなぶさ」に集まる仲間たち


 夕方の列車が動き出すまでにはたっぷり時間があるので、構内のスナップ撮影を続けます。昼下がりの午後とはいえ、人の動きがまったく感じられない静かな時が過ぎて行きます。

【1978.8.12 中津町】(電車運転士)



「はなぶさ」に集まる仲間たち


 順調に撮影を続けていたところ、にわかに雲行きが怪しくなり、突然の夕立に見舞われました。とりあえず雨宿りのためホーム上屋の下に逃げ込みました。望遠で留置車両を撮りましたが、雨粒がしっかりと写り込んだので、それなりの雰囲気の写真を撮ることができました。構内はほとんどの線路が草生しており、どれが留置線でどれが本線か見分けがつきませんが、真ん中の左カーブして下っているのが下付知に向かう本線です。

【1978.8.12 中津町】(電車運転士)



「はなぶさ」に集まる仲間たち


 夕方の列車に間に合うよう、中津町でのスナップを切り上げ、恵那峡口方面に向かいました。地図で目を付けたところ、中津町を出て木曽川の鉄橋に向かうまでの線路が俯瞰できそうなポイントがあったので、ダメ元で登ってみました。予想どおり線路を見渡すことができ、そこそこのポイントでした。奥に見える鉄橋の左奥が中津町です。夕方の一番列車が川に沿ってノンビリと走って行きます。

【1978.8.12 中津町~恵那峡口】(電車運転士)



「はなぶさ」に集まる仲間たち


 カメラを右に振ると同じ列車を鉄橋俯瞰のアングルで撮ることができました。同じ列車をまったく違った雰囲気で撮ることができるポイントだったので、満足度は高かったです。焦ってシャッターを切る位置が早すぎたのはご愛嬌ということで大目に見てやってください。

【1978.8.12 中津町~恵那峡口】(電車運転士)



「はなぶさ」に集まる仲間たち


 次の列車は国道の橋から木曽川鉄橋をサイドから狙える定番ポイントを予定していましたが、前の写真の鉄橋付近の河原から水の流れを強調したアングルも捨てがたいと思い、結局、ここで粘ることにしました。単行を予想していたところ、帰宅の学生輸送の関係か予想外の2両でやって来たため、後ろの車両が切れてしまいました。

【1978.8.12 中津町~恵那峡口】(電車運転士)



 この日の撮影はこれで切り上げました。木曽川鉄橋の定番ポイントはゲットできなかったものの、中津町から比較的近いところでいいポイントが見つかったということで、意気揚々と帰宅の途につきました。約1か月後には廃線となってしまうわけですが、もう少し時間がほしかったというのが本音のところです。

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2011年12月12日 (月)

富士山 お名残鉄

 この時期になると、3月のダイヤ改正で無くなる列車の話題が耳目を集める。今年の話題を集めるのは、日本海と御殿場線に乗り入れる小田急との直通列車であろう。日本海はともかく、371系は試運転時に矢作川橋梁で撮影したのみで、営業運転で撮影したことはなく、かねてから富士をバックに定番の位置で撮影したいと思っていた。 とはいえ、もっとも光線状態の良い列車は御殿場を8時半頃なので、名古屋からでは一番の新幹線に乗っても間に合わない。また、撮影を予定しても、その日に富士山が見られる保証もない。そんなことから、なかなか撮影するチャンスが訪れなかった。


 毎年、12月上旬には所用があり、東京に行っている。今年は11日に行くことになり、このチャンスを使って最期の371系の撮影をしようと計画した。しかし、撮影行を行うにあたっての課題は2つあった。ひとつは当然、富士山が見られるかどうか、であるが、もうひとつはどうせ現地に泊まるなら、その前日の10日にどこに行くか、である。

 今回は、東京での所用も含めて同行する友人があり、協議した結果、天気が良ければ沼津に宿泊して、371系の撮影を決行することとした。懸案の前日の行動は、伊豆急のイベントなどもあったが、現地について富士が見えなければ大井川鉄道、富士が見えればこれも貨物が危ないと聞いている岳南鉄道に行くことにした。


 どちらの心がけが良いのかわからないが(多分、友人の方であろう)、前日に天気予報でも晴れの予報が出たことから、予定通り、撮影行となった。すでに18切符のシーズンであることから、それを使うことにして、とりあえず静岡へ。浜名湖あたりから、富士山がくっきりと見え、大井川鉄道ではなく、予定通り、岳南鉄道に行くことにする。貨物までちょっと時間があることから、草薙で途中下車。時間つぶしに静岡鉄道を撮影するが、狙った場所に行けるわけではないので、富士山はちょっと画面に入るだけの無理無理構図である。


「はなぶさ」に集まる仲間たち


 続いて岳南鉄道の撮影のため、吉原で下車する。ここで問題は、土曜日で貨物が運転しているかどうか、である。駄目なら電車を撮ればいいや、と思っていたが、駅で聞くと、午前に比奈まで行った貨物が昼一番の列車で降りてくるとのこと。運行は4往復中の1往復だけであるが、富士山をバックに狙える定番撮影地のジャトコ前で、側面は陰るものの、ほぼベストの状態で撮れることがわかり、一安心である。

「はなぶさ」に集まる仲間たち


 やってきた貨物は、青いワム80000の貨車かと思えば、コンテナ車であった。コンテナ列車は岳南原田発で、比奈のヤードにいるワム80000とは荷物が違うのではないか、と思われる。岳南鉄道の貨物が無くなるのは、ワム80000の扱いを中止するとのことが理由と聞くが、このコンテナの貨物も一緒に無くなってしまうのであろうか。


 まだ時間があるし、富士も見えるので、岳南鉄道の電車が富士山と撮れないか、と終点まで乗ってみる。確か神谷のあたりで横から撮れたように思ったが、終点の江尾まで乗っても、沿線は宅地化が進んでいて、それらしい場所は見つからなかった。やむをえず、須津川の鉄橋のところで撮影するが、足回りが隠れるだけでなく、手前に木も入ってしまい、アングルとしてはもうひとつである。

「はなぶさ」に集まる仲間たち

 

 さて、その日は沼津に泊まる。皆既月食の夜であったが、アルコールが入って、月食の時には熟睡であった。(^^;)


 翌日、目が覚めると快晴である。富士山もくっきり見える。勇躍御殿場へ。撮影地について、びっくり!なんと、撮影地にずらりと撮り鉄が並んでいるではないか。その数、ざっと100人!すごい。予想を遙かに超えていた。場所が広いことはわかっていたので、ぎりぎりに行っても大丈夫と思っていたが、甘かった。すでに入る場所がない。

 とはいえ、当方は手持ちの撮影である。なんとか、三脚の間から抜いて撮影させてもらう。


「はなぶさ」に集まる仲間たち


 ほぼ満点の写真が撮れた。(^_^)

 しいてあげれば、コンクリートの柵が微妙に車体にかかってしまっている。これをクリアするには、脚立の上に乗らなければならないが、さすがに電車で移動しての撮影では脚立がない。まあ、このあたりは大目に見てもらうしかしょうがないであろう。


 ここで小田急からのRSEまで撮って、御殿場線で松田に向かう。御殿場線に乗るのも30年ぶりくらいである。

 松田で降りたのは、まだ、東京に行くには時間があり、せっかく富士が見えているので、それまで酒匂川を渡る小田急の特急を狙おうという魂胆である。小一時間の間に、VSEを含む4本の特急を撮ることができた。


「はなぶさ」に集まる仲間たち

 御殿場線の松田駅に戻って、小田急からの連絡線を走る371系を撮影する。このシーンも貴重な記録となるだろう。


「はなぶさ」に集まる仲間たち

 後の予定があるので、撮影はこれにてお終い。まだ、富士山が見られるので若干の心残りはあるが、やむをえない。


 富士山は、撮影していた二日間にわたり、ほとんど雲がかからず、その全容を魅せてくれた。よくよく考えたら、これほど恵まれた条件で、富士山を長い間見ていたのは初めてかもしれない。小田急を撮影している時、自転車で通りかかった地元の子供たちが、「あ、綺麗」などと歓声を発していたから、地元でもなかなか見られないくらいの絶好の条件だったのだろう。

 これだけ綺麗な富士に対峙していると、なんとなく心が洗われるような気がする。天候にも恵まれて、久々に満足した撮影行となった。(駅長)



 





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2011年12月11日 (日)

OB会に寄せて

先日、大学時代のサークル仲間が集まり、プチOB会~いわゆる忘年会が催されました。

学生のころから二十年余、ん?三十年近く??の年月が過ぎ、年相応の容姿になりつつあるも、皆様相変わらずで何よりでございます。幹事のM先輩におかれましては、出席の返答をしたつもりだったのに通知が届いておらず、直前に申し込んでご迷惑をおかけしました。またいつも幹事のお努め、たいへんご苦労様です。


今回は、久しぶりに皆様が集ったOB会に寄せて、若くて元気だったころの・・・いやいや、今でも・・・一場面を振り返ってみたく思います。


1985年2月のとある日、H先輩と後輩のA君との3名で狩勝峠攻略を企てました。深夜の新得駅で夜行列車を降り、空が明るくなり始めたころ、よし!とスノトレのひもを結びなおして、はるか西の方角にそびえる山々を目指して歩き始めました。



「はなぶさ」に集まる仲間たち

目的地方向の第一の目安となる畜産試験場(→懐かしい!)を目指します。はるか南方に大カーブを描く線路が見えてきました。下り旧客が来る時間が迫っていたので、高度は低めですがとりあえずこの場所で撮影することにしました。この場所がどのあたりなのか、立ち位置は全く覚えていません。


「はなぶさ」に集まる仲間たち

さらに歩き続け、少しずつ高度を稼ぎます。線路沿いから登れそうな斜面が見えてきたので、ひとまずよじ登ってみると、先ほど撮影した大カーブが雄大な風景の中に見えています。もうこの場所でいいや、と妥協してしばらく撮影を楽しみました。183系が新得に向けて下っていきます。今では防風柵のせいで、どこまで列車が見通せるのでしょうか。



「はなぶさ」に集まる仲間たち

これは、その列車を同じ場所から東を向いて広角で撮影したもの。画面の右手奥に新得の街並みが見えます。よくここまで歩いてきたものです。そして正面はるかかなたに見える山容は阿寒岳でしょうか、遠方まではっきりと見渡すことができ、みごとに雲一つない上天気でした。



「はなぶさ」に集まる仲間たち

フィルムをカラーからモノクロに入れ替え、周りの風景も取り入れてみようと100mmレンズで撮影してみましたが列車が小さすぎて撃沈です。どこを走っているかはお分かりかと思いますが車両形式は判別できません。多分183系か(汗)。


おそらく、電車運転士様ならもっと壮大な風景をものにされていることと思いますが(→画像アップ希望)我々はこのポイントで妥協してしまいました。せっかく上天気だったのに惜しいことをしたかな、と後悔するものの、「同じ行動をもう一度やってみよ」と言われても現在ではほぼ不可能なので、学生時代の鉄活動として良き経験ができた、と納得しております。(出札掛)




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2011年12月10日 (土)

【アーカイブス】Railways2 公開記念 40年前の富山地鉄カラー

 鉄道とそこに働く鉄道マンを描いた映画、RAILWAYS2が公開されている。人気を呼んだ前作は一畑電鉄であったが、今回は富山地鉄が舞台である。


 富山地鉄は、地方私鉄といえども100kmを超えるほどの路線を有している。こうしたことから、駅設備などには結構レトロな雰囲気を残しており、立山を望む風景の良さと相まって、映画の舞台としてふさわしい要素を備えているのだろう。先月、富山に行って来たが、現地であった鉄関係の知人は、皆、名刺にこの映画のPRを刷り込んでいた。富山地鉄には、昔から何かと縁もあり、そんなことから公開日を待ちかねて、さっそく見に行ってきた。


 映画の内容は、ご存じのように、鉄向けと言うよりも、夢を忘れた中高年の男性をターゲットとしている。しかし、鉄の視点で見ると、ストーリーより映像としておかしな点が目に付いてしまう。例えば、鉄橋を渡る時に音と映像があっていないとか、最期に宇奈月温泉発電鉄富山行き急行のシーンが時系列になっていないとか。ストーリーの展開上、やむをえないかもしれないけれど、富山湾に面する岩瀬から宇奈月温泉の近くまで、なぜあんなに早く行けるのだ(高速を使っても1時間では行けないはず)とか、定年日まで再雇用が決まっていなくて、しかも、最期の乗務をしたはずの運転士が、しばらくした後に再雇用で再び運転士をしているというのも、何か気になる・・・・あ、こんな細かい鉄の視点にこだわっていると、実生活でも滝島運転士と同じ目に遭ってしまいそうですね。(^^;)


 そんなわけで、今回は映画の公開を記念し、主人公の滝島運転士が乗務を始めた頃、すなわち40年前の昭和47年に撮影した富山地鉄の写真である。これらはフジのネガカラーでの撮影であるが、70年代のネガカラーは80年代よりも変色度合いが少ないことから、今も意外に良い色が残っている。とはいえ、残念なことに一部黄変してしまっているが、この程度ならフォトショップで対応ができそうな感じである。


「はなぶさ」に集まる仲間たち


 まずは、元名鉄3800形の14710形の4連である。この塗色は急行色と呼ばれ、当時は同形のほかに同じ戦後の規格型である同社の14750形にも塗られていた。


「はなぶさ」に集まる仲間たち


 14710形は、団体輸送に対応するため、この頃、車内をバスに似たクロスシートに改装すると共に、車体塗色もブルーに白帯とした。この塗装は、12系客車をまねたものと聞いている。


「はなぶさ」に集まる仲間たち

 富山地方鉄道は、戦前にさまざまな会社を合併して誕生したが、その当時からの車両はご覧のような明るい茶色に塗られていた。この12510形は宇奈月本線へ行っていた元黒部鉄道の車両で、ステップがあったためだろか、ドア部分の車体裾が伸びた独特の外観である。


 残念ながら、この時に撮影したカラーはこの3枚だけで、特急車を含めてカラーは撮影していない。その後も、射水・笹津線はかなりカラーを撮影したが、本線系車両はモノクロでは撮影しているものの、カラーはほとんどない。思うに、あまりに日常的すぎて、カラーを撮影する気にならなかったのだろう。その間に、茶色の旧型車の塗色は急行色に塗り替えられて、無くなってしまった。今にして思えば、モノクロで撮るのではなく、もう少しカラーで撮っておけば良かった思うのだが、当時のカラーはくそ高く、ブローニー版では1枚100円くらいした。当時、安い店で寿司一貫が20円で食べられた時代である。このため、これが限界だったかもしれない。


 富山地鉄で知られざるエピソードをひとつ。富山地鉄が初めて趣味誌で本格的に紹介されたのは、昭和43年頃の鉄道ピクトリアル誌私鉄車両めぐりではなかったかと思うが、この原稿を執筆された秋山 隆さんはNHKにお勤めで、その後、あの名番組「新日本紀行」のナレーターをされた。新日本紀行は、数多くの鉄道シーンが登場したことで知られるが、その解説を思い入れたっぷりにされたのも、こうした背景があったからではないかと思われる。(駅長)

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2011年12月 7日 (水)

128.阪急日帰り鉄 1978/7/25

 高校3年も夏休みに入り、佳境に入った受験勉強の息抜き(実際には息抜き鉄が多く、受検勉強はそっちのけでしたが…)ということで、終焉の噂がちらほらと聴こえてくるようになった920系と西宮北口の平面交差を日帰りトリップで訪れました。梅雨明け直後の蒸し暑い日でしたが、1日まったりと撮影できました。



「はなぶさ」に集まる仲間たち


 920系は先にデビューしていた神戸線の特急用車両の900系の増備車として1934(昭和9)年から48(昭和23)年にかけて56両が製造されました。900系は1M方式の両運転台車でしたが、920系は経済性を考慮してMc=Tcの2両固定編成となり、広幅貫通路の採用など、戦前の阪急スタイルを確立した車両で、900系と並んで昭和初期の関西私鉄を代表する車両のひとつでした。晩年となったこの頃は伊丹線での運用が中心でしたが、最後まで2ドアを保持し、大きな改造を受けることなく、登場時の雰囲気をよく伝えていました。1982(昭和53)年の甲陽線を最後に営業運転を終了し、その直後に西宮北口~十三間で行われたさよなら運転を最後に現役を引退しました。この頃の伊丹線は920系オンリーの運用で、沿線風景は単調なものの車両については効率よく撮影することができました。

【1978.7.25 塚口~稲野】(電車運転士)



「はなぶさ」に集まる仲間たち


 920系同士の離合シーンです。当然のことながら非冷房のため、窓は全開状態、日除けの鎧戸がいい雰囲気を出してくれています。

【1978.7.25 塚口~稲野】(電車運転士)



「はなぶさ」に集まる仲間たち


 前パンの電動車を格好よく撮りたくて思いっ切り引きつけてみました。現代の軽薄な車両に比べてどっしりとした重厚さに格好よさを感じます。阪急に限らず、920系が登場した頃の車両には後に名車と呼ばれる車両が数多く登場しています。

【1978.7.25 塚口~稲野】(電車運転士)



「はなぶさ」に集まる仲間たち


 

「はなぶさ」に集まる仲間たち


 阪急名物、西宮北口の平面交差です。神戸線と今津線がクロスしており、上の写真は神戸線三宮方面のホームから三宮方向を、下の写真は梅田方面のホームから梅田方向を見ています。平面交差は路面電車同士や路面電車と鉄道線といった組み合わせはよく見られましたが、列車本数の多い鉄道線同士でこれだけ大規模なものは西宮北口だけだったような気がします。神戸線は高性能車ばかりでしたが、今津線はまだまだ旧型車の天下でした。この平面交差は趣味的に見れば興味深いものでしたが、長年ダイヤ上のネックとなっており、
1984(昭和59)年、神戸線の10両化にともなう大改良により今津線を分断するかたちで姿を消しました。

【1978.7.25 西宮北口】(電車運転士)



「はなぶさ」に集まる仲間たち


 たまたま1編成しかない2200系を撮ることができました。2200系は1975(昭和50)年に次の阪急電車のモデルを模索すべく長期にわたる実用試作車として登場しました。制御装置に電機子チョッパを搭載し、ワンハンドルマスコンの採用、前面デザインのマイナーチェンジ(標識灯を腰部に移設し、両側の窓上に方向幕を設置など)などさまざまな新機軸が取り入れられています。しかし、翌年に登場した6000系はワンハンドルマスコン・前面デザインなどは踏襲されましたが、制御器は抵抗制御となり、その後の車両は界磁チョッパ→VVVFインバータ制御という経過をたどり、結局、阪急では電機子チョッパは普及することはありませんでした。その後、電動車は電装解除され、現在は元々の付随車とともに6000系に編入されて形式消滅しています。

【1978.7.25 西宮北口】(電車運転士)

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2011年12月 5日 (月)

【アーカイブス】紀勢線DF50最期の日

 出札掛さんが、紀勢線を走る国鉄ツートンの写真を載せられているのを見て、はじめて紀勢線に撮影に行った時を思い出した。紀勢線を初めて撮影したのは意外に遅く、昭和55年3月1日のDF50のさよなら運転の時である。紀勢に足が向かなかったのは、高速道路のない当時のこと、クルマで行くには距離があって1人では行きづらかったためだろう。今にして思えば、DF50の現役の内に、もう数回行っておけば良かったと思うが、いつもながらの話で今頃悔やんでもしょうがない。最終日が初訪問とはちと情けないが、それでも無いよりはマシと諦めることにしよう。


 このさよなら列車は、新宮と亀山の間を運転され、DF50が重連で牽引した。クルマで行ったので追い抜いて撮影しているが、撮影場所がわかっていないので、適当なところで撮影しているだけである。加えて天候も最初は雨が降る悪天候であった。


 最初の撮影は、大曽根浦の手前である。ここより先は道路と鉄道が別れるので、撮影しづらかったためだろう。


「はなぶさ」に集まる仲間たち

 続いてはこの鉄橋だが、場所はどこだろうか。


「はなぶさ」に集まる仲間たち


 三野瀬のあたりでは、俯瞰気味に撮影している。


「はなぶさ」に集まる仲間たち


 この列車は、紀伊長島で1時間ほど停車していた記憶がある。

 当然、次は荷阪峠で狙うはずだが、なぜかそのカットがない。違うネガに入っているのか、あるいは天候が悪くて撮影していないのか。


 で、次は梅ヶ谷で特急との交換シーンである。


「はなぶさ」に集まる仲間たち


 駅にはこちらの方が先に着いていたと思うが、お名残乗車の乗客が降りてきて、行き違いを撮影するためにカメラを構えだした。まあ、ここまではやむをえないが・・・


「はなぶさ」に集まる仲間たち


 当然、向こう側からは撮影している当方が邪魔になる。そのため、嫌がらせをやられてしまった。もっとも、この写真だけでは何のことかわからないだろうが・・・。

 それにしても、こんなところで堂々と撮影できたのだから、良い時代というべきか。


「はなぶさ」に集まる仲間たち


 その次のカットは、三瀬谷あたりだろうか。滝原あたりは良い場所があるのだが、撮影できていない。


「はなぶさ」に集まる仲間たち

 最期のカットは、余裕を持って先行して、多気と徳和の間で撮影している。今なら、間違いなく多気の鉄橋に行くのだろうが、この時はそこまでの場所を知らなかったのだろうか。


 このように、初めての路線とあって撮影場所が練られて居らず、はなはだ勿体ない構図が多い。この後、紀勢線には何度となく、行くことになるが、この時はそのようなことになるとは夢にも思っていなかったはずである。(駅長)

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2011年12月 3日 (土)

70系最後の牙城 福塩線 1981年(その2)

福塩線2回目の訪問は、70系のさよなら運転、1981年3月1日となりました。


福山到着は前日2月28日の夜。

「はなぶさ」に集まる仲間たち

ライトアップされた福山城をバックにすでに105系に置き換わった565M並ぶ翌日の70系さよなら編成クハ76311他  福山 1981年2月28日


そして夜が明けると・・・


「はなぶさ」に集まる仲間たち

クハ76313他 府中電車区 1981年3月1日

ナント瀬戸内の初春というのに積雪が観測できるほどの朝から雪となりました。

さよなら編成は2本用意されました。

福山発着は 76311+70319+70318+76312

府中発着は 76313+70317+70075+70314

ヘッドマークは同じデザインでしたが、大きくもなくシンプルで非常に好ましく思われました。


激しくなる一方の雪のなか、沿線に走行を撮りに行きます。

まずは無難に

「はなぶさ」に集まる仲間たち

9582M 76313他 上戸手・新市 1981年3月1日


「はなぶさ」に集まる仲間たち

9533M 76311他 新市 1981年3月1日
雪の対策をしてなかったのでしょう、福山からの列車は駅撮りをしています。しかし、反対側はかなりの無法ぶりですね。構内踏切はこちら側のはずです。


「はなぶさ」に集まる仲間たち

9642M 76311他 道上・万能倉  1981年3月1日
どこを走っているか、ほとんどわかりませんが、ASA64でも撮れているのが不思議です。この日はこの後府中電車区に行っていますが、そこで終わっています。

しかし、このツアーはこの後さらに3月4日まで続いています!入社間もない社員がよくもこんな休みが取れたものです。それはさておき翌日は・・・。

「はなぶさ」に集まる仲間たち

回6582M 32000+70075+76314  道上・万能倉  1981年3月2日

見事な雪晴れの朝、早速、疎開留置回送が山陽本線西阿知へ向けて運転されました。


「はなぶさ」に集まる仲間たち

32000 西阿知 1981年3月2日

70系を切り離した後のクモハ32000。雪にぶどう2号の車体が映えます。


さて、私自身の70系とのお別れは3月6日でした。

「はなぶさ」に集まる仲間たち

回9363 76311+70318+70319+76312+70075+76314 吹田(操)・都島(信)

こんなところでしか撮っていないのは、たぶん休めず、非番で向かったのでしょう。しかし、よくこんなに飛び回っていたものです。我ながら呆れます。(;´▽`A``


ところで、またオマケですが電車運転士様がアップされた気動車の合造車で、唯一私が撮ったものが同じネガに写っていますので、ついでにアップさせて頂きます。

「はなぶさ」に集まる仲間たち

751D(吉備線) キユニ18 2他 岡山 1981年2月6日


改めて社会人として、このツアーはどうなのよ、とは思いますが、この頃の行動力を羨ましく思い起こしました。

(検査掛)











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紀伊国で国鉄ツートン色を撮る

とある日、電車運転士様からのお誘いコール。

「紀勢線に国鉄色を撮りに行かないか?」

天気が良ければ当初から出かけるつもりをしていたので、

「26日は仕事なので27日なら良いですよ」

二つ返事でOK。


春、秋シーズンの月末に運転される「熊野古道伊勢路号」に国鉄ツートン色のキハ40が充当されるようになってから二節目の11月第四週末、かくして例の如く深夜出発~日帰りツアーを催行したのであります。

今回は、電車運転士様が10月に撮影した画像(→ http://ameblo.jp/b1hanabusa/entry-11057752685.html  )に刺激を受け、願わくば自分も、と紀伊長島の名倉川鉄橋俯瞰ポイントを第一にリクエストしました。このポイントは以前から知られている場所ですが、出かけるたびに立ち位置を探してみるものの、いつも見つけられずに断念ばかり。しかし今回は電車運転士様の誘導でたどり着くことができ、念願がかないました。「あ~、やはりこの階段が登り口か・・・」。以前、自分もその階段は上がれど、その先は藪の中にわけ入っていく獣道に恐れをなして、「こんな場所ではないはず」と勝手に決めつけてそのまま下りてしまったので、どうりで見つからないはずですね。

前述のように電車運転士様はすでにこの場所を攻略済みで二度目の訪問になるにもかかわらず、当方のわがままを聞いていただき感謝申し上げます。撮影時は陽もさして後方の山稜までくっきりと見られるほどでしたが、このあとは時間が経つにつれて曇りがちの天気になりました。


「はなぶさ」に集まる仲間たち




新鹿以南に行けば回送も撮影できるので、一気に南下して新鹿海岸で熊野市からの折り返し回送を待ちます。モノトーン風の景色に逆光でもツートン色は持ちこたえてくれます。しかし曇り空のせいで海の輝きも中途半端かな。


「はなぶさ」に集まる仲間たち




「熊野古道伊勢路号」の特徴は、JR東海に2両しかない国鉄色のキハ“40”同士が手を組む編成であることです。一度くらいはその編成とHMがわかるようなアングルで撮りたいと思うも、何しろHMのサイズが小さいため走行写真を撮ってもどうせ中途半端な写り具合になるので、それなら、1時間ほど小休止する新鹿駅で形式写真を撮ろうと考えました。無人の新鹿駅は自由気ままに撮影できますが、残念なことに曇天模様。「回送」幕は仕方ないにせよ、ヘッドライトが点灯されていたのがせめてもの救いです。雲間から一瞬の陽がさしたところでシャッターチャンス。


「はなぶさ」に集まる仲間たち




熊野市への回送は、波田須の有名お立ち台にて迎えます。列車通過時はうっすらと明るい曇り空。この時期は列車の側面まで陽が回らないので、影が強く出て側面がツブれるよりはマシかな~、と自分に言い聞かせています。バックに写る棚田も荒地となり、木々も成長して熊野灘が見えづらく、昔のイメージとは徐々に異なる風景になりつつあります。


「はなぶさ」に集まる仲間たち




本来なら新鹿の町を大俯瞰する場所で多気行を狙いたいところですが、9月の台風の影響によりアクセス道路は今でも通行止め。こんなときは素直に線路の近くから新鹿の港をバックに撮影。実はここも電車運転士様の誘導により訪れたポイントで、たどり着いて初めて「あ、どこかで見たことあるアングル」と定番お立ち台であることに気が付いた次第です。


「はなぶさ」に集まる仲間たち



天気予報では晴れるはずだったのに、結局朝から曇りがちの一日で電車運転士様も不服そう。しかし個人的には晴天の名倉川鉄橋俯瞰が達成できたので「やや良」といたします。おそらくそのうちリベンジですね。(熊野は本当に遠い by出札掛)

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2011年12月 2日 (金)

127.街中紅葉鉄 2011秋

 今年の紅葉前線も平野部まで南下し、紅葉シーズンも終盤戦になってきました。紅葉は山深い方面へ遠征しなければという先入感がありましたが、公園の植栽や街路樹に目を向けると街中でも紅葉鉄が可能です。手軽に街中紅葉鉄ができる場所がありましたのでご紹介したいと思います。


「はなぶさ」に集まる仲間たち

 まずは、金山の名古屋寄りの陸橋ポイントです。春の桜の定番ポイントですが、公園の桜の葉が赤く色付いていました。桜の葉は色付く前に落ちてしまうことが多いのですが、いい雰囲気が出ていました。この日の81列車は牛乳パックのコンビでした。

【2011.11.30 名古屋~金山】(電車運転士)


「はなぶさ」に集まる仲間たち

 後続の5875列車は前の写真にも写っている名古屋寄りの陸橋に場所を移動しました。こちらは銀杏を中心とした木が黄色く色付いており、桜とは一味違った感じになっていました。牛乳パックと広島更新色のコンビでしたが、紅葉を強調したくて正面がちのアングルにしたため、広島更新色がほとんどわからないのがチョッピリ残念でした。

【2011.11.30 名古屋~金山】(電車運転士)


「はなぶさ」に集まる仲間たち

 少し左に寄ると、紅葉した木は多少遠くなってしまいますが、名鉄も撮ることができます。5875列車までの間はこちらで時間を潰しました。

【2011.11.30 山王~金山】(電車運転士)


「はなぶさ」に集まる仲間たち

 場所を本笠寺に移動しました。以前から気になっていたポイントで、小さな公園の木々がいい感じに色付いていました。本笠寺から10分くらい本星崎方向に歩いたところです。シャッターを切る位置を少し手前にして紅葉の木々を強調してみました。運よく前パンの1700系が来てくれました。 

【2011.11.30 本星崎~本笠寺】(電車運転士)


「はなぶさ」に集まる仲間たち

 最後に、堀田付近の街路樹の紅葉です。前の4枚とは別の日に訪れてみましたが、昼前ではすでに線路端の高層アパートの影になってしまい、行くなら朝の早い時間帯がよさそうです。

【2011.12.1 堀田】(電車運転士) 

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70系最後の牙城 福塩線 1981年(初めてのリバーサルフィルム)(その1)

駅長様から中央西線の80系のさよなら運転が紹介されたので、私からは同じ顔つき?ということで、70系の最後の運転線区となった福塩線をアップさせて頂きます。


福塩線は山陽本線福山と芸備線塩町を結ぶ78.0kmのローカル線ですが、そのうち福山・府中間23.6kmがかつて両備軽便鉄道として1914年に開業した路線で、国有化時には762mm軌間のまま電化されていたため、そのまま電車が走っていました。70系は1977年3月、阪和線の新性能化により余剰となった24両が転入したものです。


昔のことではっきり覚えてはいないのですが、縁もゆかりもないこのような遠い線区を訪れることになったのは、私をこの趣味に引き入れたU氏に誘われたためと、やはり70系の最後ということになると思います。

2月初旬と3月1日のさよなら運転の二度訪問しており、2部作でご紹介します。


まずはその布石となった、70系最後の定期検査の出場試運転の模様です。

「はなぶさ」に集まる仲間たち

試6771M クモヤ22152+モハ70316+クモヤ22001 須磨・垂水 1980年9月11日

鷹取工場から出場した試運転を下りは上記区間で、上りは大久保で駅撮りしています。これを撮ったがために福山まで行く気になったのかもしれません。


最初に訪れたのは、1981年2月4日から6日にかけて。4日には吹田工場から近畿車両まで、最初の廃車回送があり、これを撮ってから福山に向かいました。

「はなぶさ」に集まる仲間たち

近車へ回送のため、吹田工場を出る廃車編成 クハ76307他 1981年2月4日

置換えを約1か月後に控えたこの頃は、まだキチンとした?行先表示板を付けた車もチラホラ見かけました。
「はなぶさ」に集まる仲間たち

府中電車区 クハ76083 1981年2月5日


福塩線の府中まではあまり変化に富んだ風景という印象はありません。福山を出て北に向かう備後本庄・横尾間には芦田川という川沿いに走るのですが、冬ということもあり、荒涼とした風景でした。

「はなぶさ」に集まる仲間たち

565M 備後本庄・横尾 1981年2月5日

この遠征からカラーをリバーサルに切り替えました。初めて使ったのはエクタクロームですが、駅長様が言われたように30年経った今でも殆ど褪色してません。後悔してもどうにもなりませんが、このまま使っていればよかった。


「はなぶさ」に集まる仲間たち

551M クハ76083+モハ70076+モハ70073+クハ70308 神辺・湯田村 1981年2月5日

先ほども述べたように沿線は田畑か、里山といったのどかな風景が拡がり、その中に集落?が点在するといったものでした。今はどうなっているでしょうか。8割がた全金の300番台車ですが、この編成のみシルヘッダーのある1次車が3両入る編成でした。


「はなぶさ」に集まる仲間たち

532M  神辺・湯田村 1981年2月5日

橋もあるにはあるのですが、編成全てが乗るような長さはありません。行先表示板もほとんどが手書のものでした。


「はなぶさ」に集まる仲間たち

552Mと549M 神辺 1981年2月6日 
駅は立派ですが、このときはまだ通票閉塞で、信号も腕木式でした。今もそうですが、23kmあまりの線区にもかかわらず、途中の万能倉折返しが運転されています。クハ76も1次車は、タイフォンもジャンパ受栓も床下なのですね。


さて最後の1枚はいつものようにオマケです。

「はなぶさ」に集まる仲間たち

回9109M クモハ105-5他 大阪 1981年2月7日

帰りも福塩からみで、東急からの新製回送を大阪駅で撮影しています。この編成はMcTMTcMcTMTcの8連で、105系導入当初は4連貫通編成が4本製造投入されましたが、中間車はすでに制御車に改造されて形式消滅しています。


その2では、さよなら運転の3月1日と疎開および廃車回送の様子をご披露したいと思います。(検査掛)



 




 

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2011年12月 1日 (木)

【アーカイブス】知多新線全線開業の頃

 豊田線の開業時の写真を載せたからには、次は知多新線をご紹介するというのがスジだろう。豊田線は開業時は「豊田新線」と言っていたが、いつの間にか新線ではなくなった。これに対して、知多新線はいつまでたっても新線のままである。開業は知多新線の方が古いが、この差はなんなのだろうか。


 それはさておき、知多新線は上野間から順番に開業し、昭和55年6月5日に内海まで全通した。その試運転は、4月26日から始まっている。


「はなぶさ」に集まる仲間たち

 この日は道床の踏み固め(あるいは錆落とし?)にデキ400の重連が使用された。豊田線では、なぜか撮ることができなかったので、今回は張り切って撮影に行っている。まずは、河和線の坂部で回送を撮影する。


「はなぶさ」に集まる仲間たち


 続いて、内海の手前でトンネルを出てくるところを迎え撃っている。


「はなぶさ」に集まる仲間たち

 続いて、AL車が運転されたようだ。豊田線では、AL車の運転は初日の一日だけであり、希少価値があったが、知多新線は通常の運行で使用されるので、面白みはまったくないといってよい。


「はなぶさ」に集まる仲間たち

 内海の真新しいホームに、デキ400とAL車がならぶ。デキ400はその後も工臨くらいで知多新線に入線はしているだろうが、この時限りの珍しい光景であることには間違いない。


「はなぶさ」に集まる仲間たち

 内海からの返しは、上野間の手前、小野浦駅の予定地あたりで撮影している。


 海水浴と沿線開発を目的に建設された知多新線であるが、海水浴は過去のレジャーになってしまったし、沿線の大学もアルバイトに不便なことから名古屋へのシフトを強めている。住宅開発も、今後、人口減少社会が来る中で、先細りとなる可能性が高い。今後、知多新線はどのような路線となっていくのだろうか。(駅長)






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